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視点POINT OF View

温故知新のすすめ

 親の選挙地盤を継いだ政治家で一国の首相を任される人は少なくない.そのような人の中には,しばしば現状を理解できているのか怪しい突拍子もない政策を口にする人がいる.案の定,バッシングに会い疲弊する姿をTVで見るにつけ,どうしてそんなことを言うか不思議に思ったものである.

 最近,著名人の家族史を紹介するTV番組を見た.見終わる頃には,「なるほど,あの人はなるべくしてそうなったのか」と妙に納得してしまった.「歴史を知れば今がわかる」と言うが,まさしくそのとおりである.さきのバッシングを受けた政治家も結局のところ,その政策は親が成し遂げられなかったものであったりして,彼の家族史がもつベクトルを理解すれば,事の善し悪しは別にして案外必然と思えるものである.

 一方,技術史に目を向けると我々はそのほとんどを知らない.中学や高校の歴史の授業で切削加工や砥粒加工の歴史を勉強した人はいるまい.大学でも時間軸で捉えた授業はなく,最先端技術の生い立ちを知ることはほとんどない.納得のいく開発を目指すなら,それぞれの技術の持つベクトルを知りたいものである.

 15年ほど前のことである.ふと立ち寄った本屋で一冊の新書本が目にとまった.村松貞治郎著「大工道具の歴史」である.頁を捲ると,各種大工道具とともに職人に親しまれてきた天然トイシが紹介されていた.小生が研究対象とするものの中に「砥石」がある.興味をそそられ斜め読みをしていると,“昔の大工さんは鍛冶屋をおがみ倒して気に入ったカンナを鍛ってもらうと,「次はこいつの嫁さん探しだ」と言ってトイシを探した”との記述があった.「トイシが嫁さんか・・・」面白そうなので買うことにした.あらためて読み進めると,この本には地道に足で稼いだ知見が随所に込められ,最後まで巻を閉じさせない魅力と迫力があった.大工道具が主役の本でありながら,天然トイシに25頁(全体の10%以上)も割いて紹介しており,とくに京都特産の仕上げ砥「合砥」には著者の格別な想いが込められているように思えた.驚いたことに,天然トイシは磨製石器時代から使われてきた最古の工具でありながら,これまで科学研究がほとんどなされておらず,研いで得られる表面性状でさえも素人の手で僅かに調査されているに過ぎないというのである.村松氏はこの調査を称えて「研究者の怠慢に挑戦するものとして注目される.」とし,トイシに対しては「科学研究の盲点のようなものを感ずる」と記している.考えてみれば,工業界では産業革命以降,トイシは円形に姿を変え,切削後の仕上げや,刃の立たない高硬度材料を削るために回転させられて研削砥石となった.一方,近代に入って鏡面仕上げにはスラリーを用いる研磨が飛躍的に進化し,仕上げのための天然砥石「合砥」は,産業界から忘れ去られたのである.

 私事で恐縮だが,これまで新しい加工方法や工具を考案し,従来できなかった加工の実現を目指してきた.砥粒加工においては,時間と技能を要する仕上げ研磨工程を研削工程で代替すべく検討してきた.そこでは最新の研磨技術を参考にして,メカノケミカル反応を利用した“鏡面研削砥石“を開発した.ところが,天然トイシのことなど全く知らなかった.村松氏の著書に出会ってから「自分は自然界からの恵みである天然の仕上げトイシを知らず,先人が太古の昔から獲得してきた知恵を知らず,独りよがりな研究をしてきたのではあるまいか」という思いが強くなった.そこで京都の天然砥石組合に協力をお願いし,「合砥に基づく新たな鏡面研削用砥石に関する研究」(砥粒加工学会誌,53-3)を始めることにしたのである.

 一般的に大学の講義では,砥石は3要素5因子からなると教わる.砥粒を結合剤で保持しつつ,気孔を含ませているのが砥石だと教わるのである.しかし,合砥を調べてみると薄片の石英と雲母が互層をなす構造をしており,人造砥石とは全く異なっていた.また合砥を研削装置にセットし,人造砥石と同様の条件でシリコンを加工しようとするとシリコンはすぐに割れてしまった.ところが,人がカミソリを研ぐスピードでゆっくりとトイシを回転させてやると,そのうち研ぎ汁が出て鏡面が創成された.先人は山から特定の石を切り出して来て,身体に合わせた条件下でトイシとしての性能を引き出していたのである.あらためて先人の知恵に驚かされた.

 技術のもつ時間的ベクトルと現状を知ることで,より深い理解に基づいた本来あるべき方向が見えてくる.このことは一見遠回りに見えるかも知れないが,知っておいて損はないであろうと思う.


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