宴会の席でほろ酔い気分の老教授曰く「一引、二運、三才、四学。人生、成功の秘訣は人からの引きが一番、次に運。才能や学はその次です。結局、可愛がられることです。」しばらくすると、また老教授曰く「物事を見るときには鳥の目、虫の目、魚の目を持つことです。物事は全体を見て、複眼的に見て、流れを見ることが大事ということです。」ほろ酔い口伝は酔いが覚めればすっかり忘れてしまい、どうも口伝になりません。忘れぬうちに書き留めておきましょう。
11月23日〜25日は埼玉大学の大学祭「むつめ祭」でした。普段静かなキャンパスが老若男女を問わず多くの人々で賑わっていました。もともと埼玉大学は昭和24年に埼玉師範と埼玉青年師範、そして旧制浦和高等学校が合併してできた新制大学です。来年で創立70周年を迎えます。学章には埼玉師範学校の校章で使われた勾玉(まがたま)と旧制浦和高等学校の銀杏(いちょう)があしらわれています(図)。
ところで、なぜ「むつめ祭」というのでしょうか。じつはこの学章にヒントがあります。よく見て下さい。勾玉の穴が六つあります。穴を目に見立てて「むつめ」だそうです。何故、わざわざそこに注目したのでしょうか。勾玉は埼玉県の地名の基となったサキタマ(埼玉)にある古墳群から多く出土されました。瑪瑙や様々な美しい素材から作られたようです。古代の人々はこれを胸に飾り、幸を願う心的シンボルとして大切にしたようです。また、不思議な力が宿るとされ、魔除けや厄除けといった呪的な意味もあるようです。神話ではスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した後に「勾玉」をアマテラスオオミカミに献上したとされ、これが三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」になったと伝えられています。
「むつめ」には「仲むつまじい」という意味も併せ持たせているそうです。勾玉のパワーで大学祭に集まった人々を守り、益々の幸福を願う気持ちが「むつめ祭」には込められているのです。来年もパワースポット埼玉大学に是非お越し下さい。
不慣れな地を旅するときは、ネットのご当地情報が頼りです。しかし、ネット検索しても出て来なかった良宿があったり、地元の人なら滅多に使わないルートを行こうとしてしまうことがあります。普段からスマホを駆使して暮らす人々と自分を比べたら、歴然とした情報格差があるのです。
今回、ネットで検索しても目的地までの公共交通機関が見あたりませんでした。不安もあり、時間的にはかなり余裕を持って空港に降り立ちました。やはり地元の方に旨い行き方をアドバイスして貰うのが一番ということで、早速インフォメーションカウンターへ。目的地を告げると、いきなり地名を読み間違えていたことが判明。かなりの情報弱者だと思われたのか、おもむろに地図を広げ、「無料シャトルでここから○×△へ行って・・・」と丁寧にボールペンで書き込みながら行き方を教えてくれました。
”地名を読み間違えていたとはねえ・・・(-.-;” 内心恥じ入りながら教わった停留所でシャトルを待っていると、先ほどの方が息を切らせて走って来て、ルートに一部間違えのあったことを知らせてくれました。私がカウンターを去った後も気にしてくれていて、シャトルの出発に間に合うようにわざわざ来てくれたのでした。さわやかな秋晴れにも増して、このささやかなできごとが、私にこの旅の成功を予感させてくれたのでした。
京浜工業地帯ではありません。ここは宮沢賢治も愛した岩手県にある小岩井農場です。この農場は1891(明治24)年に小野義眞(日本鉄道副社長)、岩崎彌之助(三菱社長)、井上勝(鉄道庁長官)の三名で共同経営され、彼らの頭文字をとって「小岩井」と命名されました。鉄道事業のために田畑を潰してしまったことに後ろめたさを感じていた井上が、この大地を一大農業生産地にしようと夢見たことから歴史は始まります。ただ、岩手山麓は不毛の土地として知られ、土壌改良には長い年月を費やしたようです。また戦後はGHQによって土地の一部が没収されたり、稼ぎ頭であった育馬(サラブレッド生産)を廃止させられるなど、時代に翻弄されながらも痛手をバネにして経営努力を重ねてきました。いまでは牛2000頭、羊200頭、鶏6万羽もの家畜を飼育し、植林事業や観光事業も盛んだそうです。この農場の歴史からは「情熱のなせる技」「ピンチをチャンスに変える知恵」といったものを感じます。
さて、上の写真が気になるところですが、場内にある最新のバイオマス発電施設です。糞尿は環境負荷を与える産業廃棄物で、処理には費用が嵩み大きな問題になっています。バイオマス発電はその糞尿を発酵させて発生するメタンガスで発電しています。発電量は400世帯分でその半分は農場で使用し、あとの半分は売電しているそうです。環境保全・持続型・循環型社会が叫ばれる中、またもやピンチをチャンスに変えて旨く経営しているのです。
小岩井農場は、不毛の原野を百年を越す努力によって生産性の高い緑の大地に変え、環境に配慮した生産で私たちに美味しい酪農製品を届けてくれているのです。
お金の話は技術屋の私にとって不慣れでわからないことだらけです。解を求めようとしても方程式が絶対的に不足しているように思えてなりません。間違った解釈だ、不勉強だとお叱りを受けるかも知れません。例えば、取引を活性化するためにお金を大量に発行すると聞くと、価値の代用としてのお金は一体どんな意味を持つことになるのだろうかと不安になります。お金を貸し付けてその利息をあてにできるのは市場が活気づいているときだということは私にもわかります。世界には市場が冷え込んでもまだ貸し付けを続ける金融機関があって、借金で首が回らない人々が増えています。そんな国では”借金を帳消しにします。さあ皆さん、消費生活を楽しみましょう”と政府が大号令を発しています。素人にとってそんな国は竜宮城のようにしか思えません。乙姫様から渡された玉手箱を抱えているような、ギリシャ神話のパンドラの箱を抱えているような危うさを感じます。一方で、庶民が日々の生活のために稼いだお金は税金となって政治家や役人の手元に吸い上げられると、勘違いも甚だしい別物に変身してしまいます。お金って一体何でしょうか?
世界にはお金が溢れているのに、私たちの生活は一向に良くならない気がします。どうすれば、この閉塞感を打開できるのでしょうか。この溢れているお金は市場に新たな価値がないために投資できずにあるお金だそうです。本質的な打開策は「ゼロから新しい価値を創出すること」なのかも知れません。新技術には投資するが、それを生み出す人材や社会環境にはどれだけの投資がなされているでしょうか。基礎科学や技術開発をしているのは研究者・技術者たちです。かつて産業革命が経済を大きく成長させたのも、その原動力は創造性豊かな人材でした。今まさに、本庶佑妻先生のような大鉈を振るって高い目標を達成しようとする人材が必要です。人材育成には時間がかかります。今からじっくりと腰を据えて取り組む必要があります。一方、
猿蟹合戦の猿を許容する社会では独創性豊かな人材は枯れてしまいます。人材の育つ社会環境も整備する必要があります。これにもおそらく長い時間と費用を要すると思われます。いま有り余ったお金があるのなら、次の時代を創成するために思い切った投資をしてもらいたいものです。
今年のノーベル物理学賞は米国のアシュキン氏に授与されると発表されました。1971年に光の力の計算とレーザによる実証実験をされたことで有名な方です。日本でもいち早くこれに着目したのが増原先生や三澤先生でした。1993年頃、学位を取ったばかりの私は次の研究テーマを探していました。そのときに都内でたまたま増原先生のご講演を聴講したのです。水中のラテックス粒子が光の力で移動する映像を見たとき、加工に応用できるのではないかと思いました。興奮気味に増原先生にその構想をお話しすると、「装置なんてお金はかからないし、面白そうだからやってみたらいいよ。」とのこと。若者の無謀とも思えるアイデアに対して、そんなアドバイスができる増原先生は立派だとあらためて思います。早速、研究所に戻り入学したばかりの博士課程の学生に「レーザトラッピングの研究を一緒にやってみないか」と誘うと、一晩考えた末「リスクが高すぎます」と断ってきたのでした。その学生はその後もテーマに苦労しながら大学院生活を続けたのでした。
まもなく東海地方の大学に移った私は、このレーザトラッピングの無謀な計画を科研費に申請し、大幅減額ながらも何故か採択されたのでした。昔は若者に失敗させて育ててやろうという余裕があったのかも知れません。案の定、喜びもつかの間、予算が足らず実験装置の製作では苦労しました。レーザ発振器の購入では営業と熾烈な駆け引きをして何とか購入できました。しかし「市販の対物レンズにレーザを入射したら一発で壊れる」とレンズメーカに脅かされ困り果てていると、「壊れるという話は、自分で確かめたのかい?」と初対面の技術者に訊かれ、「他人の言うことを鵜呑みにして一歩も進まないのは如何なものか」と言われたのでした。その方は休日に車を飛ばして東京から来てくれて、一緒に実験室で対物レンズの耐久試験までしてくれました。光軸さえ合っていれば問題ないことがわかり、不思議な縁でレーザトラッピング装置は完成まで漕ぎ着けることができました。
配属されてきた4年生学生に「レーザトラッピングの研究をしてみないか」と呼びかけてみると、すぐさま「面白そうですね」と一人の学生が応えてくれました。早速、そのS君と実験を始めたのですが、初っぱなからアシュキン氏の論文にはない不思議な現象がわんさか出てきました。その多くは、研究目的に対して”不都合な事実”ばかりで、折角のアイデアを否定する現象ばかりでした。「何でこんな事が起きるのだろうか?」本来の研究目的はとりあえず横に置いて、誰も見たことのない不可思議な現象の謎に夢中になっていきました。まるで深海の生物を探るような、遠い小惑星の地表を見るようなワクワクする気分だったように思います。そのうち、一つ謎が解ける毎に「なるほどそうだったのか。凄いね!」と自然に対する畏敬の念を抱くようになりました。ただ次の瞬間には「だったら、これまで誰もできなかったこんな事ができるのではないか?」とワクワクするような発明にこころ奪われていました。S君は実験に没頭し、真夜中にも関わらず「できました!」と興奮して電話して来るほどでした。上の写真は世界で初めて空中に(8/1000)mmの大きさのガラスビーズを持ち上げて、220個からなる三角錐を組み立てているところを撮影したものです。それまでは床に置かれた微小なガラスビーズは表面張力が原因でレーザ光の力では持ち上げることができないとされていました。しかし、実験中のある偶然からそれが可能となったのでした。そのうち、多くの学生が面白がって実験に参加するようになり、S君も日本学術振興会から奨学金をもらいながら立派に学位を取得しました。S君の学位はレーザトラッピングの新たな可能性を提案し、それらを実証した功績に対して授与されました。審査会では賞賛の声が挙がり指導教官として喜びを感じた瞬間でした。
最初の無謀な構想”加工への応用”は、全く別の新世界を拓くきっかけになりました。しかし未だにその構想は実現できていないのです。思えば人間の考える事なんてちっぽけなものです。ただ自然の摂理に身を委ねる覚悟さえあれば、新たな研究の扉は必ず開かれることを学んだような気がしています。アシュキン氏とは直接お会いしたことなどありませんが、お陰でレーザトラッピングという技術と出会い、研究者として多くのことを学ばせてもらいました。報道によると、彼は96才になった今も研究を続けていて、太陽光エネルギーの研究に夢中だそうです。学ぶべきところの多い研究者です。ノーベル物理学賞の受賞を心からお祝い申し上げます。
(2020.9.21に亡くなられました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)
レーザ協会182回研究会が9月14日(金)、埼玉大学で開催されました。この協会は、かつてレーザ加工研究会と称していました。日本のメーカがレーザ加工機を上市するのを契機に、産業界主体で設立されました。2021年には50周年を迎える日本最古のレーザ加工関連組織です。創設にはかつて埼玉大学で教鞭を執られた小林昭教授(設立当時は東芝生産技術研究所所長)が深く関わっていました。昔、私が学生の時には先生の代理で、何度か研究会に参加させてもらいました。研究会では著名な方ばかりで大いに刺激を受けたのを覚えています。あれから随分と月日が経ちましたが、今も勢いが衰えることなく活動を続けています。レーザ関連の学協会はいくつかの系統があります。レーザ発振器は電気工学、光学は応用物理学、レーザ加工は精密工学でそれぞれ文化が違います。レーザ協会は精密工学を中心とした組織です。現場で役立つレーザ加工技術の最新情報を提供しています。
庄司会長 討論の様子 会場の様子(司会比田井先生)
新井講師 多久島講師 三木講師
9月は学会シーズンです。今年の精密工学会秋季大会は久しぶりの北海道、しかも文明の灯火である夜景がとっても美しい函館での開催となりました。ただこの時期は台風シーズンでもあります。往きは迫り来る台風から逃げるように函館へ飛び、激しい風の音で眠れぬ夜を過ごしました。
次の日は台風一過、学会大会初日に相応しい晴天となりました。学生の研究発表も順調に済んで、その晩は研究室の仲間と函館の味を堪能しました。ところが、酔いもほどよく冷めた未明に目を覚まし、何気なくTVをつけたとき、地震警報?が画面に突如として現れ、次の瞬間、電気が消えて大きな揺れがやってきたのです。長い夜が明けると街は大混乱になりました。店の商品はすぐになくなり、JR、市電、バスは運行停止。停電は18時間続き、ホテルの水道は6時間ストップしてトイレは使用禁止でした。Wi-Fiもまもなくつながらなくなり、情報難民・プチ被災者となったのでした。停電が続く現地の被災者、とくに備えの乏しい旅人にはニュースは届きません。せめて携帯電話やスマートフォーンにネット以外の情報を収集できる機能を付けて貰いたいものです。例えば、原始的に思えるかも知れませんが「電波ラジオ」が必要です。
人々が生きていくことに多少なりとも憂いを募らせているとき、窓の外では鳥達がいつもどおり優雅に空を舞っていました。本来、生きものは皆、自然の中で生きていたのに人間だけが”文明”という籠の中に閉じこめられているような気がしました。写真は変わり果てた函館の夜景です。
8月24日は次世代固定砥粒加工プロセス専門委員会の記念すべき80回目の研究会でした。記念の幕を用意してお祝いをしました。これを機に作ったSF委員会のシンボルマークには宮下先生へのリスペクトの気持ちが込められています。これまで当委員会をご支援いただいた会員と運営にご尽力いただいた委員の皆様に感謝致します。今回、いずれの講演も80回記念に相応しい素晴らしいものでした。講師の皆様に感謝致します。今後も「来て良かった、次が待ち遠しい」と言って頂けるような会にして行きたいと思います。何とぞ、よろしくお願いします。
この写真は、旅の途中に車窓から思わず撮った一枚です。大地に広がる碧い田畑、遠くに映える青い空、沸き立つ白い雲。忘却の淵に倒れかかった微かな記憶さえも、たぐり寄せそうな懐かしい風景でした。2018.8
埼玉大学で第125回ATOM研究会が開催されました。生産加工系の2つの研究室から話題提供があり、その後は実演を兼ねた研究室見学を行いました。交流会は浦和の街に繰り出し、地産地消の店で夜遅くまで酒を酌み交わし大いに盛り上がりました。遠いところから来て下さった皆様に感謝いたします。つい、いい気になって飲み過ぎました。案の定、次の日は酷い二日酔いでした。それでもATOMの興奮は冷めやらず、気分が少し落ち着くとATOMの源となった「アトム」について、ぼんやりと考えていました。「鉄腕アトム」の中で、手塚治虫は当時まだ実現されていない夢の科学技術をふんだんに登場させました。1963年-66年にかけてTV放映され、その後も再放送が繰り返され、少年たちはモノクロTVに釘付けとなり、色鮮やかな未来を見つめていました。数十年後、少年たちの中からは世界をリードする科学者・技術者が生まれました。まさしく、「アトム」は国の行く末を左右したアニメだったと言えます。ATOMのメンバーも国の行く末を託された人たちです。ATOMで大事なものをたくさん吸収してこれから大いに活躍されることでしょう。楽しみです。
機械棟5階の窓辺には、十数年前からサボテン科・クジャクサボテン属「月下美人」の鉢があります。かつて名誉教授から、”忙しい時でも植物を愛でる余裕をもちなさい”と頂戴したものです。毎年6月から11月にかけて白い大輪の花を咲かせています。今年は7月に入り、同時に7つも花を咲かせてフロア一面に甘い香りを漂わせていました。花言葉はその姿から『あでやかな美人』または、たった一晩しか咲かないことから『はかない美』『はかない恋』だそうです。誰の目にも触れず、美しい花をひっそりと咲かせる健気(けなげ)さに共感を覚える愛好家も多いのではないでしょうか。じつは月下美人にはもう一つ花言葉があります。それは『秘めた情熱』。
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学科建屋の玄関からほど近いところにK先生の退官記念樹(紅梅)があります。私が赴任したときには、冬の終わりに僅かに紅色の花をつける、いまにも折れそうな細く痩せた樹木でした。近くにはこれに覆い被さるようにして生えている大きなケヤキがあり、全くといって良いほどこの紅梅には日が当たらなかったのです。しかし2年ほど前に、このケヤキの大胆な剪定が行われ、痩せこけた紅梅にもやっと日が当たるようになりました。最近は葉っぱも徐々に増え、僅かながらも実をつけるまでになりました。まだ細い木ではありますが、こんなにも生命力が宿っていたなんて驚きです。来年はもっと多くの実がつきますように。
ここしばらくは毎日が〆切に追われ、しかも一つ仕事が片付くとまた別の仕事が舞い込んできて仕事は溜まる一方。「まあ、こんな時もあるか・・・」と諦めつつ、若手と呼ばれた昔に学会で言われたことを思い出していました。「学者と医者と芸者は同じだよ。お呼びが掛からなくなったらお終いだ。」この戯けたナンセンス話に乗せられて、今もあまり変わらない日々を送っています。歳をとると根気が失せるせいか、さすがにこれは酷い話だと思えてきます。いま国会で審議されている働き方改革法案が学者を目指す若者にとって救済策となることを祈ります。
そんな日々を送っている私のもとに、食品加工装置も手がける会社の、カラオケ上手なK会長から段ボール箱が届きました。中を開けてみるとご覧のとおり、かまぼこが山のように入っていました。メッセージは見あたりません。”さては装置の性能試験後に処分に困ったかな?”そう思った瞬間、悪戯っぽく微笑むK会長の顔が浮かんできました。気づくと久しぶりに笑ってる自分がいました。
大学の先端加工実験室は戸建ての実験室です。この建屋には50年前、大型計算機が納められていました。40年前には応用物理研究室の実験室になり、2004年に大規模な修繕が行われ、我々の実験室に生まれ変わりました。時代の流れの中で、この建屋の役割も、利用する人々も移り変わっていきました。でも、この建屋周辺にはずっと昔から寒椿、つつじ、紫陽花などが生息し、建屋の変遷と行き交う人々を静かに見守っています。今朝、雨上がりに紫陽花が小ぶりながらも美しい花を咲かせていました。その鮮やかさに魅せられて思わずシャッターを切りました。
4月20日は砥粒加工学会次世代固定砥粒加工プロセス専門委員会(通称:SF)第78回研究会を芝大門のアメテック本社で開催しました。今回はアメテックのご協力で見学会付き講演会となりました。柴田順二先生(芝浦工業大学名誉教授)には「真球創成加工の温故知新」と題して球体加工の奥深さについてお話しを伺いました。現在、先生は3回に亘りNHKの「凄技」を監修されていらっしゃるそうです。また、産総研の藤井賢一先生からは単結晶シリコンによる真球創成がキログラムの新しい定義とどのように結びついているのか、興味深いお話しを伺うことができました。つくばにはキログラム原器が世界のどこよりも良好な状態で保存されているそうです。世界の原器が大戦で消失する中、日本では基準局の威信をかけてこれを死守した歴史のあることを知りました。技術交流会でも議論は続き、大いに盛り上がりました。帰り道、数名で老舗のもつ焼き酒場「秋田屋」に立ち寄り、路上での立ち飲みとなりました(写真)。SF専門委員会の魅力は「よく練られた企画、わかりやすい講演」にあると言われますが、本当は「楽しむことを忘れない人たち」にあるのだと信じて疑わないのですが、・・・少し二日酔いかも。
3月23日は埼玉大学で精密工学会生産原論専門委員会が開催されました。大学図書館には生産原論提唱者の小林昭先生から寄贈された書籍と大量の資料が保管されています。書籍はすでに「生産原論文庫」として誰でも閲覧できるように整備されています。資料は未整理の部分も多く、この日の委員会では書庫に入って資料整理をしました。作業中、小林先生ご夫妻の1988年頃(引退されて間もない頃)の写真が偶然見つかりました。しばし整理の手を止め見入ってしまいました。
先生ご夫妻はとても仲がよく、生涯14組の仲人をされました。14組目は私たち夫婦でした。先生のご自宅近くのレストランで楽しい一時をご一緒した帰り道、「今日のことは、ずっとずっと忘れないでいてくださいね」と奥様が弾む声で私たちにおっしゃったことが、ふと蘇ってきました。時の流れの中で人は出会い、別れていく。嬉しくもあり、それ故に悲しくもあります。一期一会、大切にしたいものです。
hana
2018年3月22日、理化学研究所(和光)でELID研削セミナーが開催されました。今回で80回目を迎えるそうで、この節目の回に出席させて頂いたことに感謝致します。永きにわたり当セミナーを主宰されてこられた大森先生はじめ、スタッフの皆様のご尽力に敬意を表します。小生は「レーザ微細加工の基礎と応用」について話を致しました。ELIDグループからは3Dプリンターを使ったELID用砥石の製造技術やレーザを用いたセリア砥粒の再生技術のご発表があり興味深い内容でした。最後にマイクロバブルに関する平井教授(ものつくり大学)の講演がありました。久しぶりにお会いしましたが相変わらず聴衆を魅了するしゃべりで、つい引き込まれてしまいました。(^.^)
北浦和の焼鳥屋で追い出しコンパをしました。修士4名、学部4年生3名が研究室から巣立っていきます。研究室で出会った皆との絆を大切にしてもらいたいと思います。また、これまで諸君らが行ってきた卒論、修論は諸君らのための用意された教材です。私の伝えたいメッセージが込められています。折に触れ顧みてくれれば幸いです。諸君らの前途を祝して乾杯!!
16年間砥粒加工学会の事務局を切り盛りいただいた林事務局長がこの3月で退任されました。理事会や出版部会は林事務局長なしではやっていけなかったと思います。大変お世話になりました。感謝申し上げます。これからもご健勝でご活躍下さいますようお祈り申し上げます。
大田区PiOで賛助会員会企画のATFが開催されました。関東に大雨警報が発令された日でした。しかし大勢の皆さんが集まり大盛況でした。右の写真は交流会で撮影されたものです。楽しげな様子がわかるかと思います。今期の学会長は「楽しい学会」を目指しています。昼間は技術・研究を熱く語り合い、夜は酒を酌み交わし談笑する。まさしく楽しい学会です。大雨警報下の街で老若男女問わず夜遅くまで酒宴は続きました。
修士2年佐野侑希君が学生表彰を受けました。彼はガラスの研磨においてセリア砥粒の意外な一面を知り、その面白さに気づいた学生でした。セリア砥粒とガラスの研磨メカニズムについては昔から多くの研究があり、メカノケミカル反応が知られています。しかしガラスの研磨現場では不純物が含まれているセリア砥粒や鼻薬を入れたスラリーが使われています。純粋な砥粒ほど効率よく反応が生じて良いはずなのに何故だろう?疑問に思って研磨実験をしてみると、確かに99%純度のものはほとんどガラスの研磨ができませんでした。そこで砥粒の特性を多面的に捉えるためさまざまな実験を行い、ある温度以上で焼成した砥粒で研磨すると能率が急上昇することを見出しました。研磨能率に与える影響要因も少しずつ解明されてきました。まだ完結していませんが彼の修士論文は、常識と思われることの中から某かの疑問を見出しそれを解明していく研究となりました。2017年度精密工学会秋季大会(大阪大学)ではベストプレゼンテーション賞を頂戴しました。社会に出てもこの経験を活かして革新的な仕事をしてもらえたら指導教員として本望です。
4年にわたってお世話になった公益社団法人精密工学会理事会も3月1日をもって最終回となりました。毎回、銀座に集まり議論したこと、交流会で談笑したことが胸中を駆けめぐり名残惜しくもあり、またゴールにたどり着いたランナーのような安堵感も覚えた一日でした。理事会終了後にメンバーとともに銀ブラして、近くの和光時計台に出向きました。理事会で苦楽を共にしたセイコー役員の方の粋な計らいで実現したものです。
この時計台の歴史は古く1894年に始まります。現在の時計台は二代目で着工直後に関東大震災に見舞われ、約10年の時をかけ1932年に完成したそうです。それ以来86年もの間、銀座の街を見下ろし、日本社会の変遷と、喜怒哀楽に満ちた様々な人生模様を見守り続けています。時計台の外壁には御影石が用いられており、ネオ・ルネサンス様式の建築物です。文字盤は東西南北を向いて4面あり、右の集合写真は目抜き通りからは見ることのできない北側文字盤(直径2m)の前で撮影されたものです。時計台の天辺には避雷針を兼ねた掲揚ポールがありますが今は使われていません。ただ東日本大震災が起きた日には半旗が掲げられたそうです。
レトロな趣のある時計ですが中身は最新のGPS電波受信機能を兼ね備えた精密時計でした。見学中に6時を告げる鐘の音を聞きました。5時59分15秒からウエストミンスター式チャイム(昔、小学校でよく聞いた、♪キーンコンカーンコン、キンコーンカンコーン♪)が鳴り始め、続けて6回鐘の音が銀座の街に響きわたりました。その音色に歴史の重みとセイコーの確かな誇りを感じました。
北陸新幹線のお陰で北陸地方は随分身近になりました。2時間4分で大宮から金沢に到着、日帰り出張も十分可能になりました。私が出向いた日は北陸地方に大雪警報が出された日でしたが、関東は晴天でしたので気軽に新幹線に乗り込みました。ところが北陸に到着すると街はすっぽり雪の中といった様子でした。在来線は全て運休しており、雪を甘く見ていたことを大いに後悔しました。訪問先には丁重に訪問キャンセルを伝えたのですが「雪で電車が動かなくても車があります。」とのこと。100km離れた事業所からアイスバーンの山道を2時間で走破し、迎えに来て下さいました。雪国の雪とそこで暮らす人の心意気を知り、一段と雪国が身近に感じられた旅でした。
今年も残り一週間となりました。研究室では卒業、修了に向けてラストスパートに入っている連中も多く、忙しくなってきました。12月21日は月末報告会、大掃除、講義と大忙しの一日でしたが、夜は楽しい忘年会でした。今年、新しいことに巡り会えた学生も多く、楽しく研究生活が送れたのではないかと思います。来年もさらに未知の世界を探検し、新しい技術開発につながれば楽しいに違いありません。学生諸君には大いに期待しています。
市田宇都宮大学名誉教授が主宰する専門委員会に招かれ、「レーザ加工の原理と硬脆材料への応用」について講演をしました。市田先生は大学を引退後、これまでにないCBN材料を開発しており、現在はレーザでの形状加工に大いに興味を持っているとのことでした。先生の溌剌とされているお姿に元気を頂戴した楽しい一時でした。
他にDMG森精機の近藤様、Rollomatic SA Mr.Sven Peter、名古屋工業大学 糸魚川教授のご講演があり、どれも興味深い内容でした。当専門委員会では毎回講演者を囲んで記念写真を撮るのが決まりだそうです。右の写真はその時撮影された一枚です。技術交流会でも大いに議論が盛り上がりました。一期一会ですね。2017.12.20
将来技術研究会(ATOM)は1980年代から続く手弁当の研究会です。私が研究者を志した若かりし頃に李先生の呼びかけで始まりました。若手が集まって学会ではできない斬新な企画を立て、いろいろなところへ行って見たり聞いたりしてきました。様々な分野の方々と交流を持っことで、物事を多面的に捉え、独創研究の源となる感性や認識、価値観を少しでも身につけたいと思っています。今回の研究会では東芝機械の相良様から大形工作機械の技術講演、慶応義塾大学で学位を取得した小池氏のATOM公聴会、ディスコの方からスーパープレゼンテーション法のお話しを伺いました。とくに相良様のご講演は永年のご経験を基にされており、精密工学会2Gや砥粒加工学会の事業部会あたりで講習会を企画されたら集客が期待されると思いました。研究会後の忘年会では、かつてATOMを牽引されたシニアメンバーと若手の世代を超えた交流ができました。
2017年12月13日〜15日、東京ビッグサイトで半導体産業の最大イベントSEMICONが開催されました。3日間で6万人を越える来場者があり、研究室のブース説明では、学生全員に担当してもらいました。産業界からの質問は、学会とは異なって実用、経済に直結しており、学生たちは大いに刺激を受けたようです。また、専門外の方々にも興味を持ってもらえるような説明をするべく努力をしたようですが、学生からは自分の知識不足を感じたなど今後の知識収集や研究のモチベーションを得たようです。ブースにはOBも立ち寄ってくれました。
訪問してくれたOBの橋本君と、初日を担当した研究室のメンバー