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日々のくらしのなかで、感じたことをゆるーく書き留めています。

できごとEVENT 2020〜


 レントゲンで風を感じる

 人間ドックを毎年冬に受診しています。いろいろな検査をしますが、私が苦手なのは内視鏡です。いつも麻酔を含ませる前室では、”違和感”と戦う覚悟を決めるのです。戦うなど勇ましい表現ですが、いつも負けて酷い目に遭うのです。ただ、そんな地獄のような状況でも女神はいます。肩や背中をさすって励ましてくれる看護師さんです。看護師さんに縋って苦行を終えた後は、決まって疲れがどっと出て思わず涙目になってしまうのです。こんな経験をすれば、嫌でも内視鏡には関心を持ってしまいます。画期的な医療検査装置であることは間違いありません。ただ欲を言わせてもらえるなら、私のような根性なしにはもう少し優しい装置にして頂けないでしょうか・・・。
 一方、胸部レントゲン検査は、準備室でセーターを脱いで、検査室に入るとレントゲン技師の指示に従って装置に胸を密着させます。技師は部屋を出て別室から「息を大きく吸って、止めて。・・・はい結構です。」とアナウンス。これで検査は終了です。内視鏡に比べて何と楽なことか!それ故に、さしたる関心もなく、やり過ごすだけの検査でした。ところが、今年の検査では不思議な”違和感”を覚えたのです。「息を大きく吸って、止めて・・・」といつものアナウンス。しかし次の瞬間、トトロの猫バスが通ったかのような髪の毛が逆立つほどの風を感じたのです。驚きでした。
 レントゲン検査は、X線の発見者レントゲン博士に因んで名付けられた検査です。昔、私の研究室で物質表面の帯電を除去する必要があって、軟X線照射装置を使ったことを思い出しました。装置には赤字で「体に絶対照射してはいけない」と書かれており、ビビったものでした。X線による帯電の除去は、X線で大気中の気体をイオン化し、物質表面に残留した電子を奪い去るメカニズムだそうです。今回のレントゲン検査では、セーターを脱ぐ際に私の体が帯電してしまい、X線で帯電除去されたと解釈できます。これによって、髪が一瞬逆立ち、風と勘違いしたのでした。普通なら感知できないことが、はっきりとわかったのです。この特別な経験は、私にとって興味深い"感覚"の発見でした。



 M先生の最終講義

 私が修士のころ、たまたまある企業に分析をお願いすることになり、そのとき担当して下さったのが若手社員だったM先生でした。37年も前のことです。いま思うと、お互いに山のものとも海のものとも分からない若者でした。その後、お互いに切磋琢磨しつつ夢中で時代を駆け抜けて来たように思います。M先生が学会のお役目を退任される際には、”次をお願いできるかな”と打診されました。私の返事は「はい」か「YES」しかなく(勝手に決めていたことですが)、お陰で様々な勉強をさせてもらいましたし、楽しませてもらいました。私はいつもM先生の背中を追いかけていたように思います。”人生は運と縁で決まる”と言いますが、まさしくM先生との出会いを象徴する言葉だと思っています。
 先日、M先生の最終講義があり、お礼を申し上げねばと馳せ参じました。講義の前半では、お弟子さん達がM先生との思い出を語り、中には感極まって言葉に詰まる方もいました。皆さんが心からM先生をリスペクトしている様子がヒシヒシと伝わってきました。後半はM先生がOBの方々をできる限り沢山紹介する形式で研究室の思い出話をされました。これまでいくつかの最終講義を拝聴させてもらいましたが、こんなに心のこもった最終講義は久しぶりでした。きっと何代にもわたってM先生の遺伝子は引き継がれ、大輪の花を咲かせることでしょう。最後にこれまでのご恩に感謝するとともに、これからもお体を大切にされてお過ごし頂くことを切にお祈り申し上げます。





 古代青銅鏡研磨の研究

 昨年、精密工学会生産原論専門委員会で古墳から出土した鏡の話を伺いました。文様を作り出す金属加工に関して、工学的なアプローチをされていたのが印象的でした。ただし、鏡面については触れておらず、考古学では鏡面部への興味はほとんど無いとのことでした。そこで、古代鏡の鏡面部を科学研究してみようと思い立ちました。研究の目的は、あくまでも古式技術を知って、現代の最先端研磨技術の開発ヒントを得ようというものです。
 これまでに、古墳へ行き、古代鏡を観察させてもらいました。神社でかつての御神宝を拝見させてもらいました。金属鏡を作る職人さんのお話も伺ってきました。文献とこれらの経験を照らし合わせながら、古式技術の再現をするため、古代鏡と同成分の青銅試料を鋳物屋さんに頼み込んで鋳込んでもらいました。
 この研究に関する文献は、小林先生、河西先生以外に実践的な試みはされておらず、情報がほとんどありません。様々な分野の人とコミュニケーションをとりながら、どれだけ広く、深く知識が収集できるかが重要です。さらには、古式技術を実践し、そこから何を見つけられるか、観察力、洞察力、直感が強く求められます。その点で、大変難しい挑戦的研究であり、冒険研究とも言えます。どんな開発ヒントが飛び出すか、今後が楽しみです。





 どうして目は二つあるの?

 人が二つセットで持ち合わせているものに「目」があります。どうして二つあるのでしょう?単純に細胞分裂で左右対称になるからという答えは「どうして?」という「人の好奇心」に答えていないのです。一方で「遠近の測量に必要」という答えは普段から誰もが恩恵を受けている機能に言及していて「人の好奇心」を十分満足させてくれるのです。自然科学的な答えなのかという点では疑問が残りますが、私たちはこれで十分納得しています。
 どんなものでもそうかも知れませんが、あまりにも納得のいく答えが存在すると、人はそれ以上のことを考えなくなり、深く知る機会を逸する危険があるように思います。例えば、目をつむって太陽に顔を向けてみて下さい。まぶたを透過した光で明るいオレンジ一色を私たちは認識できると思います。次に、つむった両目を両手でしっかり覆ってみてください。光は目に届きませんので暗闇状態になりますね。それでは片手を離して片目だけを太陽に向けてみて下さい。どうなるでしょうか。両目で感じた時よりも暗いオレンジ一色を認識するのでしょうか?
 よく観察するとそれほど単純ではないことに気づきます。オレンジ色の明るい部分と暗い部分が変化して、あるときは大部分が明るくなり、ある時は真っ暗になる。そして、明るい部分と暗い部分が斑になって常に動いています。不思議ではありませんか?不見識だとお叱りを受けるかも知れませんが、おそらく私たちの二つの目は普段から、均等にものを見ていないのではないかと思われます。それが何故かは全く分かりません。認知する脳の部分が時々刻々変わって、視覚情報を多元処理でもしているのでしょうか?あるいは、目が二つあるからそんなことになっているのか、鶏と卵の因果性のジレンマを含んだことなのかも知れません。いずれにしても、「どうして目は二つあるの?」という疑問には、まだ答えがありそうな気がします。





 プロフェッショナルとは

 ひょんなことから、研究会の記念品(タイ止)を制作することになりました。早速、都内の老舗工芸店に自分のデザインを持ち込むと、しばらくして試作品が届きました。ワクワクしながら箱を開けると、私のデザインを100%忠実に実現させたタイ止が入っていました。ところが、その他にもデザインは同じですが色違いの試作品が含まれていました。「どうして?」と思いつつも、思い通りにできあがった試作品をタイにあててみました。「なかなか良いじゃない」想像通りの出来映えで気に入りました。
 一方、色違いの試作品は一見地味に見えました。折角なので、これもタイにあててみました。すると、私の試作品とは比べものにならないほど、どのタイにもピタリとよく合って、タイを引き立てるのです。そればかりか、とっても上品で格段に美しいのです。全くの驚きでした。本生産ではその色違いの試作品に変更することに迷いはありませんでした。
 顧客のデザインを100%実現できているのだから、それで十分ではないかという考え方もできます。そもそも我々が16年間の教育で慣れ親しんだ減点法で見れば満点なのだから、これ以上のものはないのです。ところが、試作した職人さんは、さり気なく色違いの試作品を箱に忍ばせたのです。”減点法では絶対に到達できない次元を越えた世界”があることをさり気なく教えてくれたように思いました。それを伝える使命感というか、プライドを感じました。プロフェッショナルとは、このように顧客の期待を越える仕事のできる人を言うのだと、つくづく思いました。





 世にも不思議な・・・

 先日の都知事選挙では、現職の知事が圧勝し2期目を迎えました。公共放送の選挙報道番組では、8時を過ぎして投票が締め切られた直後に、現職都知事の「当選確実」が告げられたのでした 。当然、開票率は0%の状況です。この、世にも不思議なあからさまな報道には違和感を覚えました。もし、これを子供に問われたら、親はどう説明したらよいのでしょう?
 資本主義における民主主義国家の限界でしょうか。人ひとりがもっと大切にされる国になって貰いたいものです。ぼんやりと国の品格について考えてしまいました。





 女神降臨

 一年ほど前、人間ドックで初めて胃カメラ検査を体験しました。私にとっては、思いの外大変でした。異物の侵入で胃は痙攣し、軽くパニックに陥りました。そのとき年配の看護師さんが”目をつぶらず映像を見ていた方が落ち着きますよ”と私の腕や肩をさすりながら、ずっと話しかけてくれました。少し大げさに思えるかも知れませんが、私には女神が降臨したように思えました。普段鈍感な人間ですが、思いがけず貴重な体験をしました。いまコロナウイルス感染で苦しんでいる人が世界中に沢山います。TVでは感染病棟に臨む看護師さんの勇姿を繰り返し放映しています。それを見るたびにあの体験が蘇ってくるのです。看護師の皆さんには感謝の言葉しかありません。

You Raise Me Up





 ノストラダムスとは

 1973年に「ノストラダムスの大予言」が出版され、1999年7の月に人類滅亡が予言されているとして一大ブームとなりました。その内容の多くは、作家の五島勉氏の創作でした。1999年の7月はかつての読者なら何となく気になったのではないでしょうか。五島氏当人は今年(2020年) 6月に90才という長寿を全うされたのでした。
 この本では人類滅亡の時期を出版から26年後に設定しています。1999年は世紀末思想の盛り上がり始める年かも知れず、人類滅亡なんて、世紀末の危機感を煽るのにぴったりの話題です。1970年代と言えば、公害が社会問題になり、環境汚染が人類の「成長の限界」を招くとローマクラブも発表した頃です。このまま行けば、世紀末はどうなってしまうのかという危機感も高まりを見せていました。また、1999年は1973年当時の働き盛りと、その家族にとってはまだ寿命に達していない年です。将来自分に降りかかるかもしれない問題として、彼らは意識するでしょう。26年後という期間は、人を深刻にせず、むしろちょっとしたスリルを楽しむ余裕を与えたのです。しばらくは続編も 売れると彼は見込んでいたのでしょう。実際にシリーズは10巻を数えたそうです。もともと占星術の本は、女性を中心に定常的に売れるようですが、これに人類滅亡という男にも関係するショッキングな事象を付けて購買層を大いに広げたのです。
 とは言っても、予言には信憑性のある占い師の存在が必要です。五島氏は”16世紀のフランス人医者で占星術師のノストラダムス”という得体の知れない人物を登場させます。予言の根拠は、聖書の解釈だとして煙に巻いています。そもそも日本人の多くは16世紀のフランスなんて知らないし、聖書も読んだことがないし、占星術が当たるなんて思ってもいない。それ故、その得体の知れない人物に信憑性を持たせるために、医者と言うだけでは足りず、占い師としての実績が必要と考えたのかも知れません。16世紀から20世紀までの有名な史実を取り上げて、”これも予言した、あれも予言した”と誠しやかに実績を列挙し、読み物としても面白くしたのでした。当時の人々からすれば、眉間に皺を寄せて否定するのも大人げないと思えたでしょう。むしろ、場が盛り上げるための流行の話題として重宝したのではないでしょうか。
 もともと五島氏は、やり手の雑誌記者でした。業界では有名な方だったそうで、スクープを狙う「サソリ」と呼ばれた人物だったそうです。仲間が設立した出版社のために売れる本を作ろうと会議を重ね生み出されたのが「ノストラダムスの大予言」でした。誰も傷つけることもなく、皆にフェイクな話題を振りまいて楽しませただけの罪にもならない本でした。本人は執筆したことで都内に戸建てを手に入れたと言うから相当のやり手と言えるでしょう。愛すべきいかさま師、いや、時代の寵児だったのですね。旨く狙いを定めた、実に良く練られたビジネスだと感心しました。




 Blowin' in the wind

 これまで人類は、ウイルス感染と散々戦ってきたはずなのに、このたびの新型コロナウイルス感染では、なぜこんなに多くの死者を出す事態になったのでしょうか。「新型ウイルス」ならば、この程度のリスクは当たり前なのでしょうか。
 約10年前に制作されたVTRでは、ある国のパンデミックに対する先進的な取り組みが紹介されていました。人類は過去に学び、知恵を絞って備えをしていたのでした。ところが、今回、最悪の死者数を出したのは皮肉にもVTRで紹介された国でした。
 その国は、ここ10年で首長が替わりました。人種も宗教も異なる前任者の政策を尽く否定したのでした。パンデミック防止のための予算も大幅に削減され、医療関係者の国際協力にも消極的でした。これらのことは、多くの尊い人命が失われたことと無関係なのでしょうか。その首長は、いまこの件で特定の国を強く非難しています。人はどれだけ悲劇を繰り返せば賢くなれるのでしょうか。

Blowin' in the wind




 せいめいのれきし(Virginia Lee Burton)

 新型コロナウイルス感染予防のため、巣ごもりを強いられると、普段は思い出さないようなことにも、思索の触手が伸びていきます。ふと、幼い頃観た絵本のことを思い出しました。
 それは父親から贈られたハードカバーの美しいものでした。黄色い背景に緑や赤で恐竜、植物、人が沢山描かれていました。頁をめくると劇場に足を踏み入れた設定になっていて、大きな舞台には銀河系の星々が現れ、真っ赤な地球が凄まじい勢いで飛んでいたり、恐ろしい光景や不思議な光景が目に飛び込んできました。また、さまざまな生きものが登場し、とりわけ大きな恐竜にはすっかり心奪われ、頁が擦り切れるほど眺めていました。まさに、その絵本は大事な宝物でした。
 ところが成長するにつれ、絵本の類は自然とお払い箱になり、あれほど大事にしていた絵本でさえも、そのうちどこかへ行ってしまいました。しかし、たまに「あの本のタイトルは何だったかな?」と思案する事もあったのですが、思い出せずにいました。
 ある日、娘と街の図書館に行ったときのことです。絵本のコーナーで黄色いハードカバーがちらっと見えました。「もしかして?!」とその本を手にした瞬間、幼い日の恐竜にワクワクした思いが鮮やかに蘇ってきて「これだ・・・」と思わず呟いてしまいました。その本は1962年に発行されてから、現在も版を重ねているバージニア・リー・バートン文・絵「せいめいのれきし(Life story)」でした。
 早速、頁をめくってみました。物語は「考えられないほど大昔、太陽がうまれました。」から始まります。絵本の中の舞台には、天文学者がいて銀河中の太陽を指し示して何やら説明しています。そのうち地球が誕生し、真っ赤なマグマだらけの地表が現れ、冷えて固まり火成岩が形成される様子が描かれています。大量の雨が降って地表が変形し変成岩が形成されたことを地質学者が腕を広げたり、虫眼鏡を覗いたりして説明しています。
 海ができて植物が生え無脊椎動物などの小さな生きものたちが地球上に誕生すると、古生物学者の登場です。古生代、中生代、新生代は、幼い私を釘付けにした舞台です。恐竜は水のしたたる草を咥えて古生物学者に顔を近づけています。思わず身を避けた学者の様子が妙にリアルで、幼い日、この舞台には確かに恐竜がいたのでした。
 物語は、”考えられないほどの大昔”から始まり、植物、昆虫などの小動物、恐竜などの時代を経て、人間まで行き着きます。舞台にはおばあちゃんが登場し昔の話をしています。そのあと舞台に作者自身が登場して、自分の家に纏わる家族の話を慈しむように懐古します。そして家周辺のいまの夏、秋、冬の景色が描かれ、待ちわびた春の日の朝焼けのシーンへと繋がっていきます。最後の頁には、幾重にも輪を描いた長い一本の「時の鎖」が描かれ、物語は次の文で締めくくられています。

”そして、いまは夜あけ・・・あたらしい日、春のある日の夜あけです。
一分ごとに、東の空があかるくなり、光は、はい色から、ふかい青に、そしてまた、あわいピンクにかわってきました。
太陽がもどってきたのをよろこんで、鳥たちは、にぎやかにうたいます。
すぐまえの、緑の草地には、うまれたばかりの子ひつじがいます。
さあこれで、わたしのおはなしは、おわりです。

こんどはあなたが、はなすばんです。あなたの窓の外をごらんなさい。
じき、太陽が、のぼります。さあ、このあとは、あなたがたのおはなしです。
その主人公は、あなたがたです。ぶたいのよういは、できました。時は、いま。場所は、あなたのいるところ。
いますぎていく一秒一秒が、はてしない時のくさりの、新たな”わ”です。
いきものの演ずる劇は、たえることなくつづき・・・
いつも新しく、いつもうつりかわって、わたしたちをおどろかせます。”


物語の最後に、「時の鎖」は子供達の手元まで届きます。「このあとはあなたがたが主役です、命の話を続けて」と作者は次の物語を子供達に託すのです。この絵本は作家のバージニア・リー・バートンさんが53才の時の作品です。肺ガンで亡くなる6年前のものです。ガンを抱えた彼女が、祈るような思いで描いた「命への賛歌」だったのではないかと思えるのです。いま、COVID-19を克服し、新しい世界を切り拓く子供達に読み聞かせてあげたい一冊です。

せいめいのれきし





 ギタープレイヤーTommy Emmanuel

 新型コロナウイルス感染の影響で、日常のペースが崩れてしまった人も多いのではないでしょうか。感染を終息させるためにはもう少し時間がかかるようです。しばらくは外出を控え、焦らず、眠れぬ夜にはMusic journeyでもしてみませんか。
 最近、ギターの音がやけに心に入ってきます。オーストラリア人のトミー・エマニュエルという人の演奏を聴きました。彼はとにかくギター演奏が楽しくてたまらないようでした。ギターをベースやドラムのように扱い、巧妙な演奏をします。世界中で尊敬されているギタープレイヤーの一人だそうです。
 幼い頃、彼はカーラジオから流れてくるギター演奏にすっかり魅了されたそうです。それ以来、独学でギターを学び、独創的な奏法を編み出します。そんな彼の演奏を芸当だとバカにする人もいるそうですが、嫉妬されるくらい”きらめく才能”に恵まれた方なのです。
 YouTubeには彼の多くの演奏に混ざって、TEDxでの舞台も収録されています。さまざまなことを語り、多くのテクニックを披露しています。カーラジオでギターの音色を聴いて以来、彼はギタープレイヤーとして生きていくことを決めます。まわりからは「止めとけ、どうせできっこない。」と反対されたそうです。しかし、諦めなかった彼はいまや世界中の人々をギター一本で幸せな気持ちにさせています。TEDxの舞台で最後に「人生はリハーサルじゃない。好きなことはどんどんやろう!」とメッセージを送っています。他人になんと言われようと信じる道を行こう。人生は一度きりだよ。ということなのでしょう。
 昔の教えに「愚を守り、志を移さず。黙々として其の真を養う」というものがあります。研究者を志した私に、尊敬する恩師が贈ってくれた言葉です。どの世界でも通用する教えなのだなあとあらためて思いました。独創は常識と違った路線を行くのだから、まわりからの抵抗は大きいはず。独創性を語るとき、専門を磨くことを語る人は多いのですが、常識人で居ようとする自分と戦う勇気など独創性を発揮するのに必要な精神論を語る人は案外少ないようです。
 眠れぬ夜は、Music journeyで元気を貰いましょう。

Bernie's Tune  







 「またね」

まだほのかに暖かい君の額に
手を当てて目を閉じる
「またね」って言ったじゃない



Dance With My Father

Back when I was a child,
before life removed all the innocence
My father would lift me high
and dance with my mother and me and then
Spin me around ‘til I fell asleep
Then up the stairs he would carry me
And I knew for sure I was loved

If I could get another chance,
another walk,
another dance with him
I'd play a song that would never, ever end
How I'd love, love, love
To dance with my father again

When I and my mother would disagree
To get my way, I would run from her to him
He'd make me laugh just to comfort me
Then finally make me do
just what my mama said

Later that night when I was asleep
He left a dollar under my sheet
Never dreamed
that he would be gone from me

If I could steal one final glance,
one final step,
one final dance with him
I'd play a song that would never, ever end
Cause I'd love, love, love
To dance with my father again

Sometimes I'd listen outside her door
And I'd hear how my mother cried for him
I pray for her even more than me
I pray for her even more than me

I know I'm praying for much too much
But could you send back the only man she loved
I know you don't do it usually

But dear Lord she's dying
To dance with my father again

Every night I fall asleep
and this is all I ever dream



Tears In Heaven

Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
‘Cause I know I don't belong here in heaven

Would you hold my hand if I saw you in heaven?
Would you help me stand if I saw you in heaven?
I'll find my way through night and day
‘Cause I know I just can't stay here in heaven

Time can bring you down, time can bend your knees
Time can break your heart, have you begging please, begging please
Beyond the door, there's peace, I'm sure
And I know there'll be no more tears in heaven

Would you know my name if I saw you in heaven?
Would you feel the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
Because I know I don't belong here in heaven





 超精密加工と感性

 超精密加工の追求は、一重に加工精度限界を突破していく行為です。その前人未踏の世界に到達するには、機械要素や工具の開発、システムや加工技術そのものの開発など、さまざまなハードルを超えていかなくてはなりません。無から有を生み出すのですから、その開発過程では最高に研ぎ澄まされた感性が不可欠となります。
 一方、超精密加工は時として人の感性を刺激して止まない製品を生み出すことがあります。たとえば、従来の切削では切削マークで曇った金属面しかできませんが、超精密切削ならアルミや銅を水面のような光沢面に仕上げることができます。かつて、松下幸之助氏がその切削面を見て、「ツルツル、ピカピカな美しい面」と絶賛し、感性を刺激されたと伝えられています。
 もう一つ、感性を刺激されるものに鉄道模型があります。これを知ったのは、たまたま金型を見学しに行った先が、鉄道模型で有名な会社だったことがきっかけでした。プラスチック成形で製造される模型には金型が必要です。プラスチックは熱によって変形しますので、金型を模型の形状寸法どおりに作製してしまうと、まともな物ができません。そのため、材料変形を見込んだ形状で千分の一mm以下の極めて高い精度で金型は作られます。随所に職人技が光る技術なのです。ただ、鉄道模型は工業製品ではなく、趣味のおもちゃに過ぎません。そのおもちゃにどうして超精密加工が必要なのか、最初はわかりませんでした。
 後日、その疑問を解くために鉄道模型店に行ってみました。店先のショーウインドーに一人の子供が釘付けになっていました。業を煮やした父親が一言「これにのめり込んだら、身上を潰すよ」と言い放ったのが印象的でした。聞けばマンションの部屋いっぱいに線路を敷いて模型を走らせている(ジオラマ)大人がいるとのこと。大の大人を虜にする鉄道模型とは?その謎は鉄道模型を手に取ってみれば一目瞭然でした。詳細を忠実に再現した芸術の領域に達する美しさで、”惚れ惚れするような精巧さ”なのです。この精巧さを出すのに超精密加工が欠かせないのは言うまでもありません。店で商品を眺めている内に、私も欲しくなってモータ付きの模型を2つ買ってしまいました。高価でありながら躊躇はありませんでした。レジでは初心者であることを見抜かれ「線路は買わないのですか」と訊かれたので「要りません」と答えると、親切にもそれぞれの模型に一本ずつ線路をおまけでつけてくれました。
 購入してわかったことですが、精巧にできた模型ではありますが完成品ではなく、自分で小さなパーツを車体に嵌め込む一手間が残っていました。ただ穴は空いておらず、ピンドリルをホームセンターで購入しなければなりませんでした。誰にでもできる簡単な作業ですが、わざと残しているのです。この最後の一手間が購入者と模型との距離をぐっと近づけるのです。さらに、完成した模型を線路に乗せて、電池を線路に接続すると模型の先頭に電灯が灯り、ゆっくりと走り出したのです。軽い模型なのでビュンと飛び出るかと思いきや、実車さながらの走り出しに感心してしまいました。鉄道模型は人の心理を熟知した、ある意味特殊な世界を形成しているように思いました。店先で聞いた「身上を潰す」という話は、あながち嘘ではないなと思いました。それ以来、模型店には近づかないようにしています。;^_^)
 昔、技術と芸術は「Art」と一括りで表現されていたそうです。超精密加工と感性について思うとき、技術と芸術の興味深い関係が透けて見えてきました。





 Delicacy

 人口密集地では、新たなマンションが駅前の一等地に建設され、いまや乱立状態のところもあるようです。収入の安定した若い世代にとって、購入は生き甲斐でもあるのでしょう。
 一方、いま建設が各地で進められているものに、高齢者用の介護施設があります。急激に進む高齢化社会に対応すべく、急ピッチで建設が進められています。せっせと稼ぐ若い世代とは違って、入居する多くの老人に経済力はありませんし、施設がなければ生きていけない状況の人たちも少なくありません。それでは介護施設の建設は、どのような土地で進められているのでしょうか。ちなみに、介護施設を運営する業者には土地の取得に補助金はつかないようです。
 先日、ある介護施設を車で訪問するため、その施設の住所をナビに入力してみました。番地までくると選択肢がなくなり、入力できませんでした。そこで、およその見当をつけて施設に向かいましたが、ナビの音声案内が終了しても、施設がどこにあるのかさっぱりわかりません。藪の中の狭い道を行く羽目となり、そのうちすっかり道に迷ってしまいました。心細さを抱えながら、そこで目にしたものは、霊園と産業廃棄物施設でした。さすがに気持ちが滅入ってしまいました。
 介護を必要とする高齢者にとって、これまでどおりの家庭生活をおくることは厳しいものがあります。故に家族は少しでも老人が過ごしやすく、プライドの傷つけられない環境をと考え抜いて泣く泣く施設に送り出すのでしょう。介護する皆さんも厳しい労働環境下で一生懸命に使命を全うしています。経済的な理屈から言えば、人口密集地での施設建設は厳しいものがあり、現状では結局人里離れた辺境の地になってしまうケースもあるのでしょう。人権を尊重する先進国家ならば、もっと老人に敬意を払い、delicacyを持って対応して貰いたいと思うのです。











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アーカイブ2017−2019

2024年
1)レントゲンで風を感じる
2023年
1)M先生の最終講義
2022年
1)古代青銅鏡研磨の研究

2021年
1)どうして目は二つあるの?
2020年
10)プロフェッショナルとは
9)世にも不思議な・・・
8)女神降臨
7)ノストラダムスとは
6)Blowin' in the wind
5)せいめいのれきし
4)ギタープレイヤー
3)「またね」
2)精密加工と感性
1)Delicacy